【ルウベンスの偽画】(堀辰雄)
【本文リンク(青空文庫)】
【本作の概要】
堀辰雄が自ら処女作と呼んでいる作品で、21歳のときに過ごした軽井沢での美しい印象を主体にして、恋愛心理を分析的に描いた作品である。
夏が終わりつつある高原の避暑地を舞台に、密かに「ルウベンスの偽画」と名付けて恋慕っている「彼女」と、「刺青をした蝶のように美しいお嬢さん」への交錯した青年の恋愛の心理を綴った物語。関係が思うように進まない「自分の目の前にいる少女」と、思い描く理想の「心像の少女」への恋愛心理の分析や意識の流れが、堀独特の特徴的な美しい文体で描かれている。
『ルウベンスの偽画』は、堀が初めて訪れた軽井沢の鮮烈な印象と、その2年後の夏に滞在した思い出を美化して作品化したものだが、堀は自作について、ボードレールの散文詩『スープと雲』の「雲」のようなものへの思いを凝縮させて成ったものが『ルウベンスの偽画』であるとしている。
(以上、Wikipediaより転載)
(ボードレールを参照していたのか…。)
【部分抜粋】
(※ 部分抜粋の対象は「本ブログ作成者が特に感動した箇所」となっている)
・彼もホテルとは反対の方向のその小径へ曲った。
その小径には彼女きりしか歩いていないのである。
彼は彼女に声をかけようとして何故だか躊躇をした。
すると彼は急に変な気持ちになりだした。
彼はすべてのものを水の中でのように空気の中で感ずるのである。
たいへん歩きにくい。おもわず魚のようなものをふんづける。
彼の貝殻の耳をかすめてゆく小さい魚もいる。自転車のようなものもある。
また犬が吠えたり、鶏が泣いたりするのが、はるかな水の表面からのように
聞えてくる。そして木の葉がふれあっているのか、水が舐めあっているのか、
そういうかすかな音がたえず頭の上のほうでしている。
彼はもう彼女に声をかけなければいけないと思う。
が、そう思うだけで、彼は自分の口がコルクで栓をされているように感ずる。
だんだん頭の上でざわざわいう音が激しくなる。
ふと彼はむこうに見覚えのある紅殻色のバンガロオを見る。
そのバンガロオにまわりに緑の茂みがあり、その中へ彼女の姿が消えてゆく……
・彼女の顔はクラシックの美しさを持っていた。
その薔薇の皮膚は少し重たそうであった。
そうして笑うときはそこにただ笑いが漂うようであった。
彼はいつもこっそりと彼女を「ルウベンスの偽画」と呼んでいた。
・しかし彼はその自転車の中に残っていた唾のことは言わないでしまった。
…(略)…その時から少しずつ彼は吃(ども)るように見えた。
そして彼はもう不器用にしか話せなかった。
一方、そういう彼を彼女は持て余すのだった。
・それは去年の夏、ずっと彼女のそばに附添ってテニスやダンスの相手をしていた
混血児らしい青年であった。…(略)…唯、そのすれちがおうとした瞬間、その青年の顔は
悪い硝子を透してみるように歪んだ。それからこっそりとお嬢さんの方を振り向いた。
その顔にはいかにも苦にがしいような表情が浮んでいた。
・ところが現在のように、自分が彼女たちの前にいる瞬間は、彼は
ただそのことだけですっかり満足してしま うのだ。…(略)…それというのも、
自分が彼女たちの前にいるのだということを出来るだけ生き生きと感じていたいために、
その間中、彼はその他のあらゆることを、――果してその心像(イマアジュ)が
本当の彼女によく似ているかどうかという前日からの宿題さえも、すっかり犠牲にして
しまうからだった。