【レヴィナス 何のために生きるのか】(小泉義之)①
【概要】
人間は、生まれて、生んで、死んでゆく。この事実をどう受け止めるか。生物としての人間の運命とは、いかなるものか。生殖の存在論とは何か。90年代に流行したレヴィナス論から離れ、レヴィナスとともに、人生の意味と人生の目的について根底から考え直す。
第一章 自分のために生きる
第二章 他者のために生きる
第三章 来るべき他者のために
(以上、アマゾン商品説明より抜粋)
<第一章 はじめに>
・何のために生きるのかなんてぜいたくな悩みだと批判する人がいる。
…(略)…レヴィナスは、その通りだと認める。
さしたる不安もなく生活を送っている人が、それでも立てなくなるし
立てざるを得なくなるのが、何のために生きるのかという問いであると認めてしまう。
・意味とは、存在そのものを正当化できるような知恵、あるいは少なくとも、
存在の正当化と存在の正義に不安を感ずるような知恵のようなことではないだろうか。
人生の意味に気を取られていると語る男性と女性は、日常的に、そんな知恵の探求に
駆り立てられているのではないだろうか。
・ところで、何のために生きるのかという問いに、答えはないと、あるいは、本当の
答えはないと決めてかかる人がいる。…(略)…レヴィナスは、本当の答えはあると主張する。
…(略)…たしかに、私たちは、何のために生きるのかなどとはめったに考えない。
そんな問いを考えなくとも、そんな問いに答えなくとも、私たちは生きてきたし生きているし生きていけるだろう。しかし、だとするなら、私たちは生きることにおいて、何のために生きるのかといいう問いにすでに答えてしまっているのではないか。
…(略)…いかなる答えをとろうとも、私たちは生きてしまっている。
答えが出なくとも、問いは無意味と思っても、生きるのをやめて死んでしまうことは
ほとんどない。この事実は重い。
何のために生きるのかという問いを立てることは、この厳粛な事実を深く考えるためのひとつの通路である。…(略)…おそらく、私たちは、問いに対する答えそのものを、身をもって体言化し肉体化して生きている。いわば、答えは、身体ないし肉体に書き込まれている。
…(略)…そこから帰結することをひとつだけ記しておこう。何のために生きるのかを考えるために人間は生きているのだとしよう。すると、人間は、何のために生きるのかを考えるために生きる人間を、生みながら死んでゆくことになる。
<第一章 自分のために生きる>
・何もかもがどうでもよくなることがある。
…(略)…こんな状態は様々な仕方で現れるが、レヴィナスは、第二次世界大戦のさなかに書かれた『実存から実存者へ』において、その三つのあらわれ、倦怠・怠惰・疲労を分析している。
先ず留意すべきは、倦怠・怠惰に陥った人間も、身体的に動くし動かざるを得ないということである。パンの買い出しのために立ち上がる。水を飲むために台所に足を踏み入れる。ゲームのスイッチを押すために指を動かす。たくさんの行為を実行する。
行為とは、何らかの目的を抱き、その実現のために身体的に動くことである。
だから、行為主体は、行為の目的を欲求し、行為の目的を実現するには何をすればよいか分かっている。…(略)…実際、便器に腰掛けるという行為は、学校や会社に出かけるという行為と、構造的には何の違いもない。身体的な行為としては、何の優劣の差もない。
そもそも、倦怠・怠惰に陥った人間は、何に疲れ果てているのだろうか。
…(略)…しかし、そのままでいいんだよと肯定されて自ら納得しても、疲れ果てている。その程度の工程ではとても赦されはしないかのように、疲れ果てている。
…(略)…とすれば、倦怠・怠惰に陥った人間は、あれこれの身体的行為や実践に疲れ果てているのではなく、「実存そのもの」に、生存そのものに疲れ果てているのだ。
自分が生きているというそのことに疲れ果てているのだ。
これは、学校や会社に出かけられる人にも、ときおり起こることだ。
学校や会社が嫌なわけではないし、そこに幸せが欠けているわけでもないが、
違和を感じてしまう。こんなことを続けていいんだろうか。こんなところに居てもいいんだろうか。こんなもののために自分は生まれてきたのだろうか。学校や会社でうまくやって生きているというそのことに違和を感ずるのだ。
『…(略)…怠惰とは、重荷としての生存に対する、無力で喜びのない嫌悪である。怠惰とは、生きることの怖れである。(中略)怠惰は生存を放り出すことを欲する。ランボーの言う「皆で演ずる茶番劇」が自分抜きで演じられることを欲する。怠惰は存在の否定であるが、それでもやはり存在の遂行である。怠惰の苦い本質は怠惰が脱走であることから由来するが、そのことは契約のあることの証しである。』
(『実存から実存者へ』四九~五十ページ)